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越後長岡(3)・山本五十六 [人物]

越後長岡の3回目は、山本五十六です。

山本五十六は戦前の長岡出身、海軍軍人です。
明治17年(1884)生まれ、昭和18年(1943)没。
山本五十六.jpg
(Wikipediaより)

旧長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれ、当時の父親の年齢から
五十六と命名されました。
旧制長岡中学卒業後、明治34年に海軍兵学校に次席で入学。
明治37年に7番で卒業後、日露戦争(日本海海戦)で負傷、
左手の人差し指と中指を失いました。

大正4年、長岡藩家老の山本家を相続、以後山本五十六と名乗ります。
大正8年、ハーバード大学に留学、その後駐米武官、ロンドン軍縮条約会議に参加。
昭和11年、任海軍次官。同14年、連合艦隊司令長官。欧米の実情をよく知り、
アメリカとの国力差を十分認識していたことから日独伊三国同盟の成立に反対、
日米開戦には最後まで反対の立場をとりました。
昭和18年(1943)4月、南方の前線視察途中ブーゲンビル島上空で乗機が撃墜され戦死。
死後元帥府に列せられました。

山本元帥の為人ですが、ベンジャミン・フランクリンとリンカーンを尊敬し、
茶目で明るく冗談好き、特に目下の者に対しては人情味があり礼儀正しく、
面倒見も良かったので同僚や部下からの信頼が非常に厚かったそうです。
また航空機に早くから着目するなど、傑出した名将として、
日米から高く評価されています。

元帥語録として
「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」や
「男の修行」(「苦しいこともあるだろう
       言い度いこともあるだろう
       不満なこともあるだろう
       腹の立つこともあるだろう
       泣き度いこともあるだろう
       これらをじつとこらえてゆくのが
       男の修行である」)
は有名です。また揮毫を頼まれた際は「常在戦場」と好んで書き記したそうです。

山本元帥の生家は昭和20年8月1日の長岡空襲で消失、現在は山本記念公園と
なっており、復元された生家や胸像が建てられています。
また公園の近くには山本五十六記念館があり、家族や親友に宛てた手紙や
軍服などの遺品、ブーゲンビル島上空で戦死した時に搭乗していた
一式陸攻の左翼などが展示されています。

尊敬していた長岡の先人、河井継之助記念館からはほんのすぐ近くです。


今でも人気のある山本長官は文学作品や映画の題材にも取り上げられ、
1953年の「太平洋の鷲」で大河内傳次郎が演じて以後、たくさんの作品が
残されています。

私はやっぱり三船敏郎が演じた山本長官、特に純白の第二種軍装で、
出撃する部下に対し「帽振れ」の姿が印象に残っていますね。


山本五十六記念館(JR長岡駅より徒歩10分)
 新潟県長岡市呉服町1丁目4-1
 0258-37-8001
 午前10:00~午後05:00 大人500円

山本五十六記念館入口.JPG

山本五十六記念館入場券.jpg


山本記念公園
 新潟県長岡市坂之上町3

山本元帥記念公園.JPG

山本元帥記念公園胸像.JPG
山本元帥の胸像。

山本元帥生誕の家.JPG


室内に掲げられている「常在戦場」の額。
山本元帥生誕の家の額「常在戦場」.JPG

ありがとうございました。



越後長岡(2)・河井継之助 [人物]

河井継之助は幕末の越後長岡藩の家臣です。
文政10年(1827)年生まれ、慶応4年(1868)没。
河井継之助.jpg
(Wikipediaより)

若い頃から自由奔放であり、藩の役職を免ぜられることも
何度かあったようですが、先見の明に優れ、薩長政権の
樹立なども早くから予見していたようです。

鳥羽伏見の戦いの後には、江戸藩邸を処分した金で暴落した米を
買いつけ、函館へ運んで売るなど、非凡な才能を発揮しています。
また当時日本に3つしかなかった最新鋭のガトリング砲のうち
2つを購入しています。
ガトリング砲.jpg

慶応4年(1868)、新政府軍が小千谷に迫ると長岡藩家老に出世していた
継之助は新政府軍の本陣に乗り込み、軍監だった土佐の岩村精一郎と
会談(小千谷談判)。しかし成り行きで軍監になった岩村に継之助の
先進的な意図(武装中立)を理解できる訳がなく交渉は決裂。
越後長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、戊辰戦争で最も熾烈を
極めたとされる北越戦争に突入します。

継之助は長州の山県有朋か薩摩の黒田清隆を交渉相手に望んでいました。
岩村も後の自伝でこの時の対応が不適切だったことを認めています。
なお岩村は後に佐賀県権令になりますが、ここでも「無能で横柄な
岩村の抜擢は、最悪の選択だったと言える」(ドナルド・キーン「明治天皇」)
と酷評されています。

北越戦争で当初長岡藩は互角以上に戦いましたが、絶対的兵力に
劣るため一旦は長岡城を奪われます。しかし意表をつく作戦で
長岡城を奪還します。一度陥落した城を奪い返すというのは
軍事史的にも非常に稀なことだそうです。

ただその奇襲作戦の最中、最前線で戦っていた継之助は
流れ弾により重傷を負い、また新発田藩の裏切り等により
その後の新政府軍の反撃を支えることができず長岡城は再び陥落、
継之助らは会津へ向けて落ち延びました。

越後から会津へ向けて八十里峠を越える際、
 「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
という自嘲の句を詠んでいます。そして旧暦8月16日、
塩沢村(現福島県只見町)にて破傷風で死去しました。
享年42歳。


継之助はその構想や手腕を高く評価される一方で、
長岡を荒廃させた張本人として批判されることもあり、
墓石を何度も倒されるということもあったようです。

しかし司馬遼太郎の「峠」(1968)や、平成17年の年末大型時代劇
「河井継之助~駆け抜けた蒼龍~」で中村勘三郎が演じるなど、
稀代の英雄であったことは事実でしょう。

なお小泉改革で有名になった「米百俵」の小林虎三郎は継之助の親類です。

現在、JR長岡駅近くに河井継之助記念館があり、当時の書や品物を
見ることができます。
河井継之助記念館入口.JPG

河井継之助邸跡の碑(記念館入口).JPG

河井継之助記念館入場券.jpg


河井継之助記念館(JR長岡駅より徒歩8分)
 新潟県長岡市長町1丁目甲1675-1
 0258-30-1525
 10:00~17:00、大人200円
 http://www.tsuginosuke.net/index.html

長岡.jpg

一忍可以支百勇.jpg
「一忍可以支百勇 一静可以制百動」(河井継之助の座右の銘)
(一忍以て百勇を支う可く 一静以て百動を制す可し)
私の好きな言葉です。

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